一宮町の不動産屋のブログ 3月12日 映画批評 「聲の形」  ~快刀の無い世界と、大人の不在が生み出す無限地獄~



 

期待されていた方、お待たせして申し訳ございません。

映画「聲の形」について、レビューしたいと思います。

 

大変申し訳ないのですが、

この映画を観て感動した方、涙が出て止まらなかったという人は、

この先は読まれない方が良いと思いますので、

ブラウザバックでお戻り下さい。

 

ちなみに今回はネタバレをそのまま載せますので、ネタバレを知りたくないという方も、お戻り下さい。

 

目次

1、観た理由と、観ている途中・観終わった直後の感想。

2、物議を醸すこの作品

3、映画版のネタバレあらすじ

4、登場人物と救済(案)

5、苦しければ、降りてみる。

 

 

1、観た理由と、観ている途中・観終わった直後の感想。

 

さて、私がこの作品を観たのは、「聴覚障害者に対するいじめという、極めて重いテーマを描きながら、とても評価が高い」という前評判からでした。

 

観る前の感覚【重い作品だと思うけれど、感動したという評価も高いし、

アニメーションもきれいにつくられているし、たまには道徳的な話も観なくてはならないし、

心を洗う意味でも見ておく必要があるだろう】

 

観ている最中・観た直後の感想

【聴覚障害者でも健気に笑っていじめや逆境に我慢していれば、

自分を受け入れてくれる人が現れてくれてめでたしめでたしって、

聴覚障害者に対して失礼過ぎるでしょ!? なんなのこの展開!?

どうでもいい主人公が勝手に救われた話より、より闇が深いヒロインが全く救われていない。

このままだとヒロインは、DV男につかまって望まない妊娠をして、悲惨な人生を送る事ぐらいしか想像出来ない。

なによりこの一見ハッピーエンド的な終わり方が気持ちが悪いわ!!】

と観ているうちにだんだん腹が立って来たことも有り、

レビューをしなくてはならないと思いつつ、不快だったので、もう一度DVDを観る気が起こりませんでした。

 

 

 

2、物議を醸すこの作品

 

しかし、例えばコアな映画ファンの集まる、filmarksでも、賞賛のレビューが多かったり、

他のレビューを見ても「子ども達にもみせたい」「道徳の授業で取り上げてほしい」と書いてあったり、

文部科学省が、映画『聲(こえ)の形』とタイアップ!~ 勇気をもって 心の声を伝えよう ~ 

とキャンペーンを行っている事も知り、「こんな終始地獄のような話のどこが教育的なんだよ・・・」と納得がいきませんでした。

まるで、初めて行った飲食店で、出された料理がものすごく不味いのに、他のテーブルやカウンターを見ると、他の客が美味しそうに食べているのを見て、

「俺の舌の方がおかしいのか?」と感じるみたいに、「俺の方がおかしいのだろうか?」ともやもやしたりしていました。

 

ただ、「聲の形 胸糞」「聲の形 気持ち悪い」と検索したところ、それなりに批判的な意見も有り、賛否両論であると知り、

映画「聲の形」に対する、障害者からの反応

「聲の形」はいじめっ子向けの感動ポルノなのか

「聲の形」を批評家達はどう捉えたか

求めていたのは和解ではなく拒絶~普通学校で虐められた聴覚障害者が読んだ聲の形~

ざっと調べてみても、これだけあって、それなら原作者は、いったいどのような考えの元に、この作品が作られたのかを調べたところ、

 

観てから情報収集した後の感想

【これは感動作でも無く、感動ポルノでも無い。

れっきとした悪意にあふれたノワールだ。それなら納得が出来る】

 (ノワール・・・映画の一分野。人間の悪意や差別、暴力などを描き出している。

闇社会を題材にとった、あるいは犯罪者の視点から書かれたものが多い)

という結論に達しました。

 

この作品については、作者の大今良時さんと、萩上チキさんが対談しており、

和解だけが救いの形ではない――『聲の形』作者・大今良時氏の目指すもの – 大今良時×荻上チキ

 

実はこの対談がかなり的を得ていて、

大今さんは、「大人が助けてくれるようには描きたくない」「なにも解決しない物語が好き」と述べており、

そういう考えが背景にあるならば、話として何も解決していないという事に納得しました。

実は解決方法も、萩上チキさんが述べており、

「大人になるというのは、誰とでも仲良くするということじゃなくて、仲良くできる相手を選びつつ、

無理だと思ったら自然に離れていくスキルを身に着けることですよね」

という話がこれにあたっています。

 

つまり作品は、いじめは良くないとか、聴覚障害者に対する差別はいけないとか、そういう道徳的な話では無く、

きちんと物事を、ふかんして見てくれて、助言をしてくれる大人が不在な中で、

主人公達が、鉄条網を体に巻き付けて転がる様に、苦しいのに離れられない人間関係をずっと続けていくという、

暗く、醜く、苦しい、人間の醜さを露悪的に見せつけるノワール作品です。

映画は、京都アニメーションがきれいにつくっているので、その演出や作画で感動した方もおられるかも知れませんが、

コミックス版を読むと、登場人物の醜さや、暴力性をもっと露骨に描いているので、

どちらが本質かと言えば、コミックス版だと思われます。

 

この作品の結論は、言ってしまうと、タイトル通りです。

「大人の不在が生み出す 無限地獄」

 

 

 

3、映画版のネタバレあらすじ

 

 

聲の形のネタバレあらすじ:起

石田将也は退屈を何よりも嫌う、クラスのガキ大将的存在。色々なイタズラをして日々を過ごしていました。

行き過ぎたイタズラをする将也に対し、周りの友達たちはだんだん抜けていくようになりました。

退屈こそ自分の最大の敵だと考えていた将也は、このままでは退屈な日常に飲み込まれてしまう、負けてしまうと考えるようになっていました。

そんなある日、将也のクラスに西宮硝子という女の子の転校生がやってきます。硝子はスケッチブックを取り出し、自分は耳が聴こえないため、このノートを通してみんなとコミュニケーションを取りたいと説明するのでした。

最初はクラスのみんなも友好的に接していたものの、だんだん特別扱いをしなければならない硝子に対し、面倒臭さや疎ましさを感じるようになっていきました。

さらに、硝子に優しくしようとした佐原みよこが偽善者などといじめられて不登校になってしまいました。

その様子を見ていた将也は退屈をしのぐ最高の方法を見つけたと思うのです。執拗に硝子をかまい、池に硝子のノートを捨て、何度も補聴器を壊すなどしていじめるようになってしまったのです。

その様子を面白がって見ていた子も、一歩引いたところで見ていた子もいましたが、特に止めに入るような子はおらず、いじめはどんどんエスカレートしていきます。高額な補聴器が何度も壊れてしまい、硝子の母親が学校に相談をします。

そこで開かれた学級会ですべて将也の責任だということになってしまいます。将也の母、美也子は壊してしまった補聴器の総額170万を持参し、硝子の母、八重子の元へと謝りに行きます。そして、今度は逆に将也がいじめのターゲットに変わってしまいます。

そのような中、硝子だけは将也に歩み寄ろうとしてきます。将也はそれが余計に悔しくて、硝子に手をあげてしまいます。今までおとなしくしてきた硝子でしたが、そのときは反抗し、取っ組み合いの喧嘩となります。ほどなくして、硝子はまた転校してクラスを去ってしまいました。

 

 

聲の形のネタバレあらすじ:承

硝子が転校しても、将也が再びクラスの中心的な存在に戻ることもなく時は流れていきました。

誰ともコミュニケーションをとらず惨めで孤独な日々を過ごします。中学校に入学してもその状況は変わらず、自己否定をするようになった将也は人間不信も募っていき、次第に他人の顔に×マークが見えるようになっていきました。×のマークが顔全体を覆って誰が誰かも認識できず、まともに顔を見て話すこともできないまま将也は高校3年生になろうとしていました。

そんな中将也は、硝子をいじめた後悔から手話を習っていました。将也は自殺を考えており、死ぬ前に硝子に謝罪しようと思っていたのです。手話教室で硝子と再会した際に、謝ったら死のうと考えていたのに、将也が手話で伝えた言葉は「友達になってくれ」ということでした。

将也の手話に感動した硝子は快諾します。将也は自殺する前にもう1つ考えていたことがありました。

それは母に肩代わりしてもらった補聴器代170万円を母に返すという事です。一生懸命バイト代を貯めてついに170万円を母親に返しますが、将也の母、美也子は将也に自殺願望があることを見抜いていました。

こんなお金はいらないから絶対に死ぬなと、死ぬならこのお金は燃やすと将也を脅します。

母親の必死な説得を受け、将也は自殺しないことを約束します。そしてある日、不良に絡まれているところを助けたことをきっかけに将也にも永束という初めての友達ができました。永束は非常に将也を好いてくれました。

そんな中、将也が硝子に会いに手話教室にいったところ、ひとりの少年が会わせないように仕向けてきました。少年は硝子の彼氏だと言い張ります。

しかし硝子は将也に気が付き、自分から近づいてきてくれました。

二人が談笑していたところ、筆談ノートが川に落ちてしまい、将也が飛び込んで拾います。

しかしその姿がネットに拡散されてしまい、将也は謹慎処分を受けてしまいます。謹慎中に姪の面倒をみていた将也は公園で偶然、また少年に会います。少年は家出中だったようなので家に連れて帰ることにしました。そこで二人は話をし、距離を詰めていきます。そして少年は実は女の子で、硝子の妹の結弦であるということも発覚しました。

聲の形のネタバレあらすじ:転

将也は硝子のために自分ができることはないかと考えていました。そこで、小学校時代、硝子をかばって不登校になってしまった佐原みよこと再会できないか、と考えます。そこで小学校からの同級生で現在も同じクラスの川井みきに佐原の学校を聞き、なんとか再会することができました。

佐原と硝子は再会を喜んでいました。そして偶然にも、同じく小学校の同級生である植野直花にも遭遇します。植野は将也と硝子が一緒にいる姿をみて、ありえないと罵りました。植野は当時、将也ほどではないものの、一緒になって硝子に強く当たっているメンバーの一人でした。

一方、将也への想いが芽生えていった硝子は好きと声に出して伝えます。

しかし、将也は月と言っているように聞こえてしまい、伝えることが出来ませんでした。そんな中、先日の再会をきっかけに将也、硝子、結弦、永束、佐原、植野、川井、そして川井の友人の真柴を加えて遊園地に遊びに行くことになりました。

遊園地では楽しく過ごせたものの、園内で将也の元悪ガキ仲間から将也をいじめるように一転した島田に会います。植野は将也と島田に仲直りしてほしかったと言いますが、将也としては切り離したい過去であり、植野にきつく当たってしまいます。将也のことが好きな植野は、そのこともあり八つ当たりで硝子にきつく当たってしまいます。

次の日、将也は真柴から硝子をいじめていた過去を知っている旨を言われ、いじめは許せないと宣言されます。

とっさに自分ひとりでいじめていたわけではないということを将也は言おうとし、川井に話をふると、将也が硝子をいじめていて自分は無関係だということをアピールされ泣き出してしまいました。クラスの視線に耐え切れなくなった将也は逃げ出し、そこに遊園地に遊びに行ったメンバー全員が集合します。

結局互いを責め合い、責任を押し付け合い、将也は自分を慕ってくれていた永束にひどい言葉を放ち、再び友達を失ってしまいます。一方西宮家では硝子、結弦ともに大好きだった祖母が亡くなってしまい硝子も結弦もひどく悲しむのでした。

聲の形の結末

将也は、硝子と結弦の母、八重子の誕生日会に招待されます。最初は将也を警戒していた八重子でしたが、次第に心を入れ替えた将也を理解し、認めるようになります。

そして夏には4人で花火大会に行きました。八重子と結弦は席をはずし、将也と硝子二人で花火を見ていました。突然、家に帰るといった硝子は将也にありがとうと伝えます。その後、結弦が戻ってきて、将也に家にカメラを取りに行ってくるようお願いします。

すると、ベランダから硝子が飛び降りようとしていました。必死に硝子を助けましたが、反動で将也がベランダから落ちてしまいます。将也は水中に落ちたため一命はとりとめましたが、昏睡状態になってしまいました。病院では植野がつきっきりで将也を看ており、硝子や永束を病室にいれようとしません。

とある夜、硝子は将也が死んでしまう夢をみて将也の病院へと向かいます。同じころ将也も目が覚め、病院を飛び出していました。道中で将也と硝子は出会い、改めて謝罪と生きることを手伝ってほしい、ということを硝子に伝えました。夏休みがおわり、将也は硝子を自分の学校の文化祭へ招待します。

しかし、周りからの視線が怖い将也は怯えていました。そこへ、永束がやってきて将也へ泣きながら謝ってきます。永束と仲直りすると、川井と真柴もやってきて千羽鶴を渡されました。そして佐原と植野もやってきて、植野は相変わらず硝子に強く当たっていましたが、「バカ」と手話をし、植野の手話をみた硝子は笑顔で応じました。そしてこのメンバーで文化祭をまわることができ、将也は感動して泣いてしまいました。将也はようやく幸せになろうとしている自分を少し許すことができたような気がしました。

 

以上 映画ウォッチ http://eiga-watch.com/the-shape-of-voice/ より転記

 

4、登場人物と救済(案)

 

以下は私の考えになります。作者が「何も解決しない物語が好き」と述べているので、救済策も考えてみます。

 

■主人公の石田将也(救済策:バイト)

               

 

映画版のラストで彼が救われたと、彼自身が考えてる、光の描写が入るのですが、

彼の周りにいる人間(西宮硝子、永束、川井、真柴、植野)の内、西宮硝子、植野、真柴に関してはドス黒い暗黒を抱えているので、

石田将也は別に救われておらず、今後も彼らに関わる以上、ろくでもないトラブルに巻き込まれると思われるので、彼が感じた救いは、ただの幻想に過ぎません。

どうしても、映画版のラストは、映画「未来世紀ブラジル」のラストと被ってしまいます。

石田将也に関しては、あれだけ小学生時代に、酷いいじめに遭ったにも関わらず、本来なら小学生時代の人間に会いたくないと考えるのが普通ですが、

西宮硝子に対して、つぐないという事で会いにいくのは、百歩譲って良いとしても、小学生時代に自分をスケープゴートにした植野、川井とわざわざ人間関係を再構築するかというと、違和感しか感じませんし、何か麻痺しているのかとも思います。

小学時代に、自分をスケープゴートにした人間達を、愚かにも信用し、希望を持とうとするから、事件が起こるのであって、

いつまでもそこにこだわらない方が楽になれるだろうと。

だからこれは、本来は、母親がきちんとアドバイスをしなくてはならないと思うのですが、そこまで気の回る大人は出来てきませんし、原作者も「大人が助けになる様には書きたくない」と言うことなので、彼を救済するのであれば、他に解決方法を考えなくてはなりません。

彼は母親に170万円というお金を弁償するために、バイトにも精を出していた、つまりきちんとバイト仕事をする事が出来ているので、

まともな大人である、親しいきちんとした先輩がいたり、上司がいれば、

「石田、おまえが俺が風邪の時に代わりに入ってくれて助かったわ」とか、人間関係がそこで出来てもおかしくないんですよねえ・・・

だから石田将也に関しては、「俺は学生時代はクソだったけど、バイトを通じて友達も出来たし、先輩も出来たし、居場所が出来た」という方向での救済は、十分あり得ると思います。

 

■西宮硝子(救済策:憎悪と負の感情の解放)

        

 

彼女はこの作品の中で、一番ドス黒い暗黒を抱えているので、この作品に何の疑問も持たずに、「西宮硝子かわいい!西宮硝子好大好き!」という感想を述べていた人たちは、他人の感想は自由とは言え、ずいぶん楽天的な人達だと感じます。

彼らは西宮硝子が将来幸せになる様なビジョンでも見えていたのでしょうか。

西宮硝子は、聴覚障害者でありますが、彼女の一番の暗黒面は、異常に自尊心が低いという事と、おそらく自分の記憶を改ざんしている点です。

まともな自尊心と記憶力があれば、自分を酷くいじめていた石田将也とわざわざコミュニケーションを復活させる事はしませんし、彼の事を好きになることもないでしょう。

して将也の事が好きなのに相手にされていない植野からの嫉妬などはた迷惑以外なんでも無いので、植野に関しても相手をしてあげる必要もないでしょう。

西宮硝子の母親は、コミックス版を見ると分かりますが、硝子に聴覚障害が病気によって発生した時に、障害の非を全面的に夫から押しつけられたあげく、夫から捨てられています。

この夫とその父親(硝子にとっては祖父)がクズ以外の何者でも無いので、母としても追い詰められてしまった結果、「強く生きて欲しい」という考えの元、硝子にとっては、迎える体制も整っていない普通の小学校に入れられる事になり、いじめを受けて、それで転校し、それを繰り返し、そして高校3年生になっても、西宮硝子には友達がいません。

だから西宮硝子にとっては、石田将也からのコミュニケーションは、不幸にも貴重なもので、その後のトラブルに巻き込まれていきます。

「お母さんさあ・・・強く生きるって事をはき違えてないか? 自分の考えを表現するとか、少なくとも自分にとって安全な場所を確保出来るとか、そういう事も大事なんじゃないの?」と率直に感じた次第です。

小学校の失敗があった時点で、少なくとも母は聴覚障害についての医療的な知識を得て、硝子にとって友人をつくりやすい環境、例えば聾学校に通わせるなり、まだ方法はあったと思います。

その失敗の教訓が得られていれば、西宮硝子にとって、安心出来る人間関係があれば、ルックスは良いので、普通に彼が出来てもおかしくはないし、そうすればわざわざ石田将也に、会うメリットも無かったはず。

しかしながら、それはifの話で、現実的には過去は変えられず、友人関係としたら、石田将也を中心とした、闇を抱える人間達との関係しかないので、将来的に西宮硝子が、深刻な問題に直面した時に、頼りになるとは思えない。

西宮硝子の自尊心の低さ、記憶の改ざん、自分の苦しさを優先するのでは無く、病的に他人に合わせようとする、他人の問題を自分の問題として抱え込もうとするその人格は、DV男に取っては、格好の獲物でしかないので、このままだと、かなりの確率で、DV男に捕まって、望まない妊娠をして、そのままずるずると結婚して、虐待される酷い人生を送るような未来しか、見えないです。このようなニュースも有りますし。

絶対的な解決策は、闇が深すぎて無いのですが、さし当たって彼女がおそらく記憶を改ざんしていて、表面的に出していない考えや記憶を、例えばTwitterでも匿名でも、インターネットよりも手書きが良ければノートでも良いので、言葉にしてそれを表現していく事から始めた方が良いと思います。

その改ざん部分というのは、自分を捨てた父親や祖父、自分を聾学校ではなく小学校にいじめられても転校を繰り返し生かせた母に対する「憎悪」であり、当時のいじめた人間達に対する負の感情です。

彼女は周囲の人間達を十分に憎悪しても良い権利があると思います。実際にそれを本人達に直接的に伝えるのは、まだ先の話として、言葉にしておくことがまず大事だと思います。

憎悪や負の感情を書いているうちに、石田将也や他の人間に関する不満やむかつき、封印していた負の感情もTwitterでぶちまけていくうちに、それがばれて騒動になるとすれば、もう最高です。

 

 

■植野(救済策:ハイスペックな男)

      

小学生時代に散々、西宮硝子をいじめたのにも関わらず、石田将也をスケープゴートにして売り渡した後、高校で再会するなり、石田将也に恋心を告白し、石田将也に全く恋愛対象と思われないために、その嫉妬感情をに西宮硝子にぶつけるという、よく分からないこじらせ方をしている彼女ですが、根本的に男の選び方が間違っています。

植野自身は、作中では一応、美人という事になっているので、なんでわざわざスクールカーストの最下層に位置するような、石田将也と付き合おうとするのかが、よく分からないんですよね。

これは例えば「桐島、部活やめるってよ」の様に、美人という事でカーストの位置を維持しているなら、もう少し彼女の虚栄心やら自尊心やら、友達に自慢出来る様な、ハイスペックな男と付き合った方が良くないか?高校3年生にもなって、自分の社会的な立ち回りを理解していないのか?という感覚はあります。

ただ、これはおそらく植野が、「他の友人関係とか、男とか、バイト仲間との付き合いの方が楽しいから」という事で、物語的に疎遠になってしまうと、物語をバイオレンス方向に引っ張っていく役割がいなくなるので、そのために石田将也が好きという要素を無理やりぶっ込んだからだと思います。

■川井(救済策:特に無し)

 

演技力と美貌を兼ね備えた、性格の悪い女ですが、私の知人でもこういう人はいるので、インターネットで叩かれているほど、私は嫌な人間とは思いませんでした。彼女はそのまま生きていってくれてかまわないと思います。ただ、彼女の場合も、委員長をやっているので、他にもつきあいや友人関係は別にいるので、別に石田将也の人間関係に固執する必要は無いのに、わざわざ物語りに関わってくるのは、植野と同じように、物語を偽善っぽく、不快方向に引っ張っていく役割です。

■真柴(救済策:特に無し)

彼はあのままでいいんじゃ無いでしょうか?俺は別にいいよ、遠いから。

■永束(救済策:映画部、映画サークル)

「桐島、部活やめるってよ」の映画部の武文が、映画馬鹿の前田と出会わずに、不遇な学生時代を送っているというパターンですが、彼の場合は他人との距離の取り方が、非常にいびつなところと、自己顕示欲が強すぎるので、一度きちんとした映画部なり、映画サークルに入るなり、下積を経験した方が、性格自体は優しいところや友人思いのところもあるので、その方が彼にとっては幸福だと思います。

 

■佐原さん(救済されるどころか、偉いよこの人は!)

 

 

実は小学生時代の登校拒否の話が、個人的に結構共感していますし、人の距離の取り方とか、退路を確保する点など、この人は良い意味でこのままで良いと思いますが、植野は信用出来ないので、そろろそどこかのタイミングで、人間関係を切ることをおすすめします。

 

 

5、苦しければ、降りてみる。

 

この「聲の形」は意図的に、キャラクターを成長させずに、解決策を提示せず、頼りになる大人を出さないという事で、話が進み、そして終わります。

これには、四つの意図があると考えていて、

1、「ノワール作品として、怖い物見たさで次の話が気になる」という点と、

2、「例えば頼りになる大人が現れ、具体的な解決方法が提示され、キャラクターが成長してしまうと、物語・つまり連載が終わってしまうため、それを避ける」

3、「賛否両論の話とする事で、それが議論を呼んで、作品自体の宣伝効果を高める」

4、「原作者の実体験的に、大人が頼りになった事があまりない」という点ですね。

 

もともと「聲の形」は少年マガジンに連載されていましたので、確かにバトル漫画では無い、日常話で、長期連載をしていくとすれば、キャラクターの成長は必要どころか邪魔になるので、正しい選択だったと思います。

本当なら、友人関係はもっと他の分野でも十分作れているだろうに、石田将也を中心とした、互いに信用ならない苦しい人間関係に、皆が固執し、鉄条網を体に巻き付けたまま、ほふく前進をするような事を繰り返しているので、不快に感じる人がいてもおかしくないですし、それはそれで良いと思います。

文部科学省がこの作品をバリアフリー作品として評価するという、真逆な事をやっているから、余計にややこしくなっていますが、本質はノワール作品です。

だから「人間関係に悩んでいる人」がこの作品だけを観たとしても、おそらく役には立たないし、気軽に他人に勧められる作品では無いと思っています。

なぜならこの作品の解決方法は、観る人間が探して、物語に逆らって考えなくてはならないものだから。

と、突き放してしまうと元も子も無いので、最後にこの作品を観る上で、相対化する上で役に立った本、信田さよ子「タフラブという快刀」から抜粋します。

■寂しさと共存する知恵(p166)

人はなぜ、密着した会いを欲するのか。一心同体でありたいと願い、自分の一部であると思い込むのか。それは、そう思える相手がいることで、人間だれもが抱える寂しさや孤独から解放されるからだ。裏を返せば、こうした愛を手放すことになる「タフラブ」は、寂しさを覚悟しなければならない。タフに生きる事は寂しさと共存して生きる事だ。

でもそれは言うは易すしで、なかなか難しい。だから、少々頭を使って、寂しさを分散させながら、上手に暮らしていこう。

私のおすすめは、目的別の人間関係を複層的に用意しておき、用途に応じて使い分ける方法だ。旅行をするなら気心の知れたこの仲間、食事に行くなら味覚のあうこの人たち、映画を見に行くなら感性が近いこの人たち、愚痴を言い合うなら後腐れの無いこの人達。そんなふうに決めておき、その時々によって、用途に合った人達の中から都合がつく人を見つけ、行動を共にするのだ。

「それでは広く浅くの人間関係しか出来ないじゃない。それで良いの?」と思う人もいるだろう。それでいいのだ。深いつきあいが本当に必要か、心から楽しめるものなのか、先入観を捨てて考えてみよう。

私たちはDVDを見ることも出来る。本も読める。インターネットの世界も広がっている。今時、いつもそばにいる人だけがすべてでは無い。人間関係も、その関係の深さも、どこからでもどのように操作できる。むしろ、ある特定な人に「かけがえのない存在」というディープな幻想を持たない方が、ずっと楽に心地よく、安心して生きていけるだろう。

タフに生きる事は、寂しさに耐えることではない、寂しさと共に生きる事だ。また、友達がいない、なんだか寂しい、私には家族がいないと思ったときも、短絡的に「私は孤独だ」と思い込まないで欲しい。結婚する前は、おしゃべりをしたり、一緒に食事に行ったりする友達がいたはずなのに、やがて「かけがえのない人」が登場し、「しあわせな結婚」をしたとたんにその人が最優先となり、どんどん周囲から切り離されていく。家族が出来て、かえってひとりぼっちになる事もある。

さんざん苦しい思いをして、長い時間をかけて離婚を決意した女性を、私は何人も見てきた。そこに至るまでに彼女たちは、孤独な自分をイメージして、離婚する事にたじろぎ、恐れる。

「私、これからは孤独に生きるわ。友達との付き合いも、今はもう無いから」などと言う。

だが、実際は違う。離婚したとたんに人間関係が広がり、結婚生活で失ってきた数々の楽しみが復活する。何より自由が手に入る。そして彼女達は、自信に満ちた表情で言う。

「先生、私、当分は、特定の男はいらないわ」(~p168)

 

 

■愛情、親密、理解からの転換(p204)

日本では、自他の区別なく、相手の身になって何かをすることに価値があると言われてきた。いっぽうその事で苦しみ、窒息しそうになり、八方ふさがりになってしまう人も数多くいたはずだ。私は、カウンセラーという仕事柄、そんな人達にずっと関わってきた。だから湿度の高い、粘着性の強い人間関係からの解放こそが必要とされているではないか、と思う。問題を切り分けること。だれの問題かを明らかにして、それぞれが自分の問題と限界に向き合う事。他者の問題はきちんと他者にお返しすること。(中略)気を遣わない人達は、大勢の気を遣う人達を踏み台にして生きているのだ。もし、ユートピアが現存すると信じている人がいれば、それを否定する権利は私にはない。でも、だれかの犠牲によって成り立つユートピアなんか、単なる蜃気楼だ。

 

■あとがき(p211)

私の一番嫌いな言葉が、「自分を好きになりましょう」「自己肯定感を高めましょう」である。あまりにもありふれすぎていて、拒否反応すら起こる。よくテレビで「自分を愛せない人が、他人を愛せるはずがありません」などとしたり顔で語る人を見かけるが、そんなことは無い。自分を好きでも嫌いでもいい。自己肯定感なんてなくても良い。それはどうでも良いことだ。むしろ、一番大切な人、仲良くなりたい人、もしくは身近で少しうとましく思う人とどのような「関係」をつくっていくかが鍵になる。そんな時に登場するのがタフラブだ。

 

「タフラブという快刀」の寂しさのと共存する知恵は、つまり「聲の形」の登場人物にとって複層的な人間関係が用意出来ていない故の悲劇そのものであるし、

愛情、親密、理解からの転換の、問題の切り分けが出来ていないために、石田将也は物語の人間関係を交通整理する事が出来ないし、くだらない人間関係から降りることが出来ない。

あとがきの「自分を好きになりましょう」は偽善者である川井が、西宮硝子に言っていた言葉で、ああなるほど・・・と関心してしまいました。

 

つまり、苦しく、メリットの薄い人間関係を無理に続けていると、こういう事になってしまうという事を教えてくれる作品なので、「聲の形」だけでなく、同時に相対化出来る本(信田さよ子「タフラブという快刀」を平行して読んでみると、人間関係に苦しんでいる人にとってはかなり役に立つと思います。

石田将也にとって、次のステップは、今の人間関係をとりあえずの場所として確保しつつ、他に信用出来る人間関係を作り、そして今の人間関係から、さっさと降りてしまう事でしょう。その方が彼にとって、遙かに楽で、人生が豊かになるはずです。

信用出来ない人との人間関係を無理に続けているから苦しくなる。自分が苦しいと感じているなら、そこから離れるのは、自分を守るために必要な事です。

 2018年3月11日 

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